院長ブログ
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最近話題の猫伝染性腹膜炎の治療薬に関して

2020.4.01


 猫のコロナウイルス感染症は、猫では極一般的に見られる感染症の一つであり、人の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)とは異なります。
 猫コロナウイルスは感染した猫のほとんどが無症状あるいは軽度の消化器疾患を示すのみなのですが、一部の猫で治癒が困難な猫伝染性腹膜炎(Feline Infectious Peritonitis: 以下FIP)を引き起こすことが知られています。
 FIPは致死的な疾患であるため、治療法の開発には多くの研究者の労力が捧げられてきましたが、未だに利用可能な有効な治療法が確立されていません。主な病態形成機構と考えられている過剰な免疫反応を抑制する抗炎症剤を用いた治療においても、その有効性を証明した報告はありません。
 そのため、FIPを診断した主治医はその猫さんの余命についての話を加えざるを得ないという現状の中、2019年にカリフォルニア大学デーヴィス校のPedersen博士らのグループによって、核酸合成を阻害する新規物質(GS-441524)がFIP罹患猫に高い治療効果を示すことが報告されました(Pedersen, NC. et al. 2019. J. Feline Med. Surg. 21. 271-281. 論文はオープンアクセス)。
 私はこの論文を見たとき眼を疑いましたが、獣医学がFIPを治療する時代はそう遠くない未来であること予感させるものでした。
 しかし、この物質を中国の企業が独自製法で調整したMUTIANという商品がインターネットの闇市(ブラックマーケット)で販売されています。オリジナルの特許は米国企業が保有しているためMUTIANは非正規の薬剤になりますが、現状では国による法律の違いから規制は難しいようです。問題はこのMUTIANのFIPに対する治療効果が非常に高いということにあります(販売価格も非常に高いです)。その点は上記論文の著者であるPedersen博士もカリフォルニア大学の広報で認めており、治療効果は研究データを反映していると考えて矛盾はないと思われます。
 ここで問題提起させていただきたいのは、致死率の高いFIPに対して現状唯一とも言える治療法を実際に選択できるかもしれない環境に置かれた時の飼い主様と獣医師の考え方の相違についてです。
 「自分の猫の病が治るのであればその薬を使って欲しい」というのが飼い主様の共通意見であり、その点については少なくとも私も同じ考えです。しかしその一方で、我々は動物医療の専門家としての葛藤も抱えます。それはMUTIANの薬理学的な情報、つまり物質的安定性や体内動態、毒性試験結果、副作用、禁忌等が欠如しているため、製剤の品質的信頼性をどう担保するかという点です。現状ではその非正規薬剤の薬としての信用性を評価し難いため、当院で導入することは難しいと考えています。
 「見捨てるのか!自分の子が同じ状況でもそう考えるのか!」というお怒りの声も、「全国にいる多くの治療例が薬剤の有効性と安全性を証明している」とおっしゃる方もいるでしょう。MUTIANの投与を勧める獣医師もいるようです。誤解がないよう申し添えます。ここで私は少なくとも動物医療の専門家の一人としての意見を述べているのであり、現在までにMUTIANで得られている治療効果を否定しているのではありません。科学的に調べられた情報がない薬剤を使用することは獣医師という責任ある立場で安易な判断ができないと私は考える、という意味です。また、闇市場で売買される薬剤には医薬品としての規制が入らないため、今後類似品がいくつも登場すると予想されます(既にいくつか由来不明の類似品が出回っているとも聞きます)。状況に切迫した飼い主様が詐欺まがいの業者に騙されないためには、専門家の意見は適度に入るべきだと思います。
 当院では個人で飼い主様がMUTIANを購入・使用されることについて反対することはありません(一般の方が個人の判断で他者に投与を勧める行為には賛同しかねます)。また、「どうぞ勝手にやってください」とも言いませんので、使用を検討したいという方は事前に必ず相談してください。私は獣医師側の意見を尊重してくれる方には私が知り得た情報の全てお教えします。意見は違っても獣医師が目指すものは飼い主様と同じである、ということを信じていただきたいと思います。そしてこのFIP治療薬が早く正規ルートで製品化されることを強く願います。
 情報が溢れる現代ではMUTIANの例のように飼い主側が非正規薬剤を使用するという事案が今後増加すると考えられます。社会のニーズに獣医師としてどう対応していくか、その立ち位置を再確認する良い時期なのかもしれません。